池田亮司展

 MOT(東京都現代美術館)での池田亮司展をぎりぎり
最終二日前に見に行った。オランダの雑誌からの取材
オファーがあったのはとてもラッキーだった。

 音を、映像ともからめて展示するのは珍しい試みでは
ないかと思った。本展は池田さんの本格的な個展である。

 会場は1階と地階の二部構成。二階には、日本に10台も
ないといわれる特殊なパラボラ型巨大スピーカーが5台置かれ、
見学者の身体の動きにつれ、音が変化するのを体感できる。
想像していた以上に面白い展示だった。

 会場構成に、建築家の松川昌平さんが参加している
のは知らなかった。教えてくれたらすぐに行ったのに。

http://www.ryojiikeda.mot-art-museum.jp/

http://www.000studio.com/main/works.php

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ホネ、骨、ほね

 都合でオープニングレセプションに行けなかった、
「21_21DESIGN SIGHT」での「骨」展を先日、見た。
会場構成は、トラフ建築設計事務所。
 ユニークな展示だったが、もっとたくさんの
ホネを見たかった。とくに建築のホネも。

http://www.2121designsight.jp/designsight/index.html

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トネリコが見せるデザイン・プロセスの面白さ

 六本木のギャラリー・ルベイン(le bain)で
トネリコさんの展覧会が開催中だ。このブログに
アップするのが遅くなってしまって恐縮だが、今月
26日までの開催なので、残す所、あと3日となって
しまった。
 ひとつのスツールの生成過程で生まれるかたちを
実物としてつくられ、それを見られるのが面白い。

http://www.le-bain.com/gallery/lebain/index.html

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ポンペルモというユニット

 ある企業の計画のために、ポンペルモという
デザイン・ユニットに仕事をお願いした。

ポンペルモは、イタリアのFABRICAで知り合った二人の
クリエーター、松田卓也さんと藤元明さんの二人である。
 ポンペルモさんとは昨年のデザインタイドで知り合いに
なったのがご縁だ。マグリットの絵に出てくるような斧を
モチーフにした作品がとても印象的で、惹かれた。

 松田さんは、主にプロダクト、藤元さんは映像でのクリ
エーションを行なっている。

 先日、ひさしぶりにポンペルモさんと渋谷で飲んだ。
松田さんのデザインした、ユニークなかたちのUSBメモリ
「TAG」の黒を一本、お土産に頂いた。聞けば、GOOD
DESIGN AWARDを受賞した作品だと言う。かわいいし、
リング部分がいろいろに使えて便利だ。

 イタリアでのデザイナーたちの話は、面白かった。
それにつけても、東京ってきっと大きすぎるんだな、人と
人が出会って何かをするのにも。
 ヨーロッパの都市は、有名なところでも、ぜんぜん小さい
(ロンドンは別だが)。小さいことはいいことだ。

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http://www.pompelmo.jp/

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柳原照弘さんの展覧会

時間軸にならんだブログ上では、前のことになるが、6月某日、
青山のプリズミックギャラリーで開かれている「ISOLATION
UNIT」展(7月20日まで開催)を見に行った。

 柳原照弘さんの近作が見られる。タイトルは「fake real」。
創作というものが、フェイクとリアルのはざまで起こる化学反応
のようなものであることを暗示させる。

繊細で大胆なデザイン。柳原さんは世界を見据えた展開をして
いる注目の作家である。
http://www.prismic.co.jp/gallery/gallery_works27.htm

http://www.isolationunit.info/

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善き人のためのソナタ

 DVD「善き人のためのソナタ」を買って、見た。
とても良い邦題だと思う。原題は、Das Leben der Anderen
だから、他人の生活という意味。暗示的だが、われわれ日本人
にとっては地味な感じにみえる。邦題のほうがだんぜん格好いいし、
含蓄がある。

 舞台は崩壊前の旧東ドイツ、東ベルリンの秘密警察、シュタージの
大佐が、劇作家と女優の生活を盗聴する仕事をしていくなかで、
この三者を中心にさまざま出来事が波紋をひろげていく。また、
主人公である盗聴者、ヴィースラー大尉(ウルリッヒ・ミューエ)
の心にも変化が起こる、というストーリー。


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 シュタージといえば盗聴、密告、検閲、尋問その他
あらゆる手段で東ドイツの国民の生活をチェックし、
コントロールし、縛りつけていたことで知られる。
市民の日常生活の情報のすべてをファイルにして保存も
していた。
 話がわきへそれたが、「善き人のためのソナタ」は
よく出来た映画だ。

 配役がすばらしい。ヴィースラー大尉を演じた、ウルリッヒ・ミューエ
は、実際に東ドイツ出身で、ブルーカラー出身の名優である。英語圏で
いうと、ベン・キングスレーを思わせる風貌で、この役にぴったりの
強い印象を残す。もし英語圏でこれをリメイクするなら、キングスレーか、
「アマデウス」でサリエリ、「薔薇の名前」で異端審問官を演じた、F・
マーリー・エイブラハム、またはジョナサン・プライス あたりが適役だ。

 劇作家役のセバスチャン・コッホは、ドイツ映画では、おなじみの
二枚目。最近では、「ブラックブック」に出ていたし、ケストナーの
児童文学「飛ぶ教室」でも重要な役をやっている。女優のマルティナ・
ゲデックは、「マーサの幸せレシピー」のときとはまったく違うキャラを
魅力的に演じていた。(これまで列挙した作品は、うちにDVDがあるもの
ばかりだが)


 僕が西ベルリンに住んでいたときと、この映画の設定時期(1984年〜)
は、重なるが、画面に出て来る風景(演出が入ったものであるにしても)
に懐かしさも感じる。僕が、実際に東ドイツに行ったのは、たった三度きり。
しかも、毎回ワンディ・パスポートを発行してもらっての半日旅行だった。
行ったのは東ベルリンの博物館の島、それとデッサウ。

 かつてのベルリンというのは特殊なところで、知っている人は知って
いるが、ベルリンを挟んで東西にドイツが分断されていたのではなく、
東ドイツにあったベルリンが壁で西ベルリンと東ベルリンに分けられて
いた。つまり、西ベルリンに住む人は、陸の孤島にいるのも同然だった
のである。そこだけは兵役も免除されていた。
 西ベルリンのライヒスターク(国会議事堂)の近くの西側の壁には、
階段とお立ち台があって、そこから西のひとびとが東の様子を眺める
ことができた。

 西側では、ベンツがタクシーとして走っていたが、東では、プラス
チックのわれもののような大衆車トラヴァントが、整備のされていない
路上をガタピシと排煙を出しながら走っていた。(この映画にもそう
いうシーンが出て来る)

 東側では暖房等では石炭をつかっていて、空気が悪く、風景も
煤けてみえた。ちょうど、この映画での色調と同じように。とくに、
秋から冬にかけて、街はモノクロマティックになるのだった。
 ヨーロッパの街は、夜が暗い。道路のペイヴメントが光るくらいで。
その感覚も、この映画を見て思い出した。

話が脱線し過ぎた。

 この物語での盗聴者は、悪魔であり、神でもある、と言えるだろう。
神はひとびとの日々の声に耳を傾ける。と同時に、声とは神であり、
人々の魂である、そんなメタファー。

 西欧の神は、ヤハウェのように声として託宣をあたえ、あるいは
モーゼにも語りかけた。日本でも、しばしば新興宗教などで、
神の声を聞いた人が開祖となって宗派が形成されたりする。
 神は人の言語を理解するのか、人の声を借りて神が語りかけるのか。
(神の声を人が聞くことができるということだけを単純に取り上げて
みれば、それは、神が人智を超えた超越者ではありえない、という神の
否定の根拠ともなりうるだろうか、実存主義的な意味で)。

 ブロッホという作曲家に「コンチェルト・グロッソ」という曲が
ある。初めて聞いた時、天国へのぼるような、あるいは逆に、
神が上から降りてくるような感覚を感じた。

 この映画のサントラはなかなか良く、それを聞いた人は善人になる、
というソナタもうまく使われていた。

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食べ物と日本人

 最近、風呂につかりながら時間をかけて読み終えた本。
酒井順子「箸の上げ下ろし」と渡辺保「芝居の食卓」どちらも
食べ物が切り口になっている。
 前者は「きょうの料理」に連載された軽いエッセイ。
軽いが、ときどき穿った洞察の断片もあって楽しめた。

 渡辺保は、演劇批評家。いぜん放送大学での講義を見て、
ますます尊敬置く能わざる人となったが、その著作を何冊か
愛読している。この人がいないと日本の劇評界、また、歌舞伎、
能などの伝統芸能を語る文字の世界はそうとう色あせてしまう
のではないだろうか。この本は、歌舞伎に登場する食物、食事
を通じて、日本人の暮らし、古い演劇の世界の意味や構造や
役割が述べられている。


放送大学シラバス
http://www.u-air.ac.jp/hp/kamoku/H19/kyouyou/ningen/s_1879235.html

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綿竹市 春風日中友好小学校寄贈プロジェクト

 建築家の迫慶一郎さんが、中国四川省大地震で被災した子供
たちのために、日本の技術を活かした耐震構造の小学校校舎を
無償で建てる計画を進めている。福建省の集合住居を思わせる
形状がユニークだ。
 既に各方面からの協力を仰いでいるが、百年に一度という
この大不況の影響で、募金の集まりもなかなか厳しい状況
だという。
 少しでもこの事業のことを世間に知らしめたいと思い、
僕も遅ればせながら出来る範囲での活動を始めた。


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SAKO建築設計工社
http://www.sksk.cn/


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DESIGNER'S SHOWCASE 橋本夕紀夫

「DESIGNER'S SHOWCASE 橋本夕紀夫」が商店建築社から
発売された。
 シリーズの第一冊である。この中にイントロとして橋本夕紀夫
論を書かせて頂いた。また、インタビューさせて頂いたものが
巻末に掲載されている。
 実際のインタビューは、2時間近くあったが、本になるに
あたり編集されている。実際の場では、たいへん興味深いお話
いろいろとが伺えた。
 ポイントとしては、デザインは、コミュニケーション
であるということ。決して、設計者一人の世界やパソコンと
向かいあうだけの世界からはいいデザインは生まれないという
こと。
 また、現場は重要であること。現場にはつねに創造の
ヒントがあるのだ。ものづくりをする者は、ものづくりの
現場に立ち返ることで、そこからフィードバックすることが
とても多い。言い換えれば、これもコミュニケーションという
言葉に置き換えられるだろう。

 もうひとつは、日常世界をどう見るかということ。なにげない
日常の事物や出来事は、いつかクリエーションとつながったりする。
要は、各自がその世界をどう見ているか、生きているか、である。
非凡なものは平凡なものの中に埋もれている、あるいは、となり
あわせに存在している。その両者が地とみえるか、柄として浮き
上がって見えるか、ということだ。そのきっかけを仕事が与えて
くれる。またその逆もあるだろう。この見極めをできる者が表現者、
デザイナー、設計者、あるいはアーティストであるのだ。
 くわしくは、同書を読んで頂ければ幸いである。

Hashimoto

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映画の中のイタリア語

 朝日新聞やイタリア文化会館他の主催で、まもなく
「イタリア映画祭2009」が始まる。最近、見てないな、イタ
リア映画。学生の頃は、よく見た。とくに池袋の「文芸座」で。
いまは、ああいう名画座系の映画館がほとんど壊滅してしまった
ようで残念。

 僕は、高校生の頃からその文芸座にいりびたっていた。
当時、よく見たのが、パゾリーニ、ヴィスコンティ、フェリーニ
などのイタリア映画だった。フランス映画よりもたくさん見た。
ヨーロッパ映画といえばイタリア映画だったほどだ。

 イタリアの言葉も分からないなりに、愛着を感じた。『イタリア
語は恋人と話すための言葉、スペイン語は神と話すための言葉、
英語は馬と話すための言葉』という言い回しがヨーロッパにはある
らしいが、映画の中で聞くイタリアは情感たっぷりという印象を
持ち続けている。

 イタリア語を勉強しようと思ったこともあり、テキストも買ったこと
があったが、挫折してしまった。フランス語からの類推で、抽象的
な話なら、イタリア語でも、ところどころ語彙を拾って意味を推測する
こともできそうな錯覚をもってしまうが、ともれ、何もどう語っても
イタリア語というのはエモーショナルな言葉に見えて来る。
 イタリアのテレビ局のニュースを見ると、アナウンサーまで身振り
手振りが大げさなのが面白い。同じラテン系でもスペインとは違う。

 ヴィスコンティの「ルードヴィヒ」で、ヘルムート・バーガーが演じる
バイエルンの悩める王がイタリア語でしゃべっていたのは違和感を感じて
しまう。ドイツ語なら感情表現が違って見えただろう。英語だったらまだしも、
と思う。

 フェリーニの「カサノバ」では、ドナルド・サザーランドがイタリア語で
稀代のドンファンにして文人の主人公ジャコモ・カサノヴァを演じていた。
(英語ではなかったかはずだが、ひょっとしたら記憶違いかも)。
この映画では、イタリア人のカサノヴァが陽光の母国から遠く晴れたボヘミア
で一人さびしく晩年を送り、死んで行った。ボヘミアは、いうまでもなく
非地中海世界であり、スラブ系で、ドイツ系の国。イタリアを思いながら
現状を愚痴りつつ、老いて行くサザーランドのいずまいには哀愁が出ていた。
この場面のイタリア語は、切々、連綿として訴える感じがする。
 
 僕がベルリンにいた時、親しくしていた語学校のクラスメートにナポリ
出身のイタリア人がいた。ドイツの長く暗い冬にいつも悪態をついていた。
ドイツが好きではなかったが、留学のために来ていて帰る訳にも行かない
ということだった。イタリア語でドイツ人のことを「テデスコ」という。
どういう語源か知らないが、僕の耳には、なんとなく、ドイツの国民性を
ちゃかしたような音に聞こえた。


http://www.asahi.com/event/it09/

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